Ⅰ 生い立ちから特殊相対性理論発表まで
1879年3月14日、南ドイツの町ウルムでユダヤ人として生まれました。
幼少期は言葉を話せるようになるのが遅く、また、内気であったため、学校生活になじめませんでした。
しかし、父から買ってもらった方位磁針に強い関心を抱き、自然への好奇心や数学に興味を持ち、12歳頃には幾何も理解し、ピタゴラスの定理(三平方の定理ともいう直角三角形の基本定理であり、
直角三角形の直角を挟む2辺の長さ\(a\)、\(b\)の2乗の和が斜辺の長さ\(c\)の2乗に等しくなる(\(a^{2}+b^{2}=c^{2}\)という定理)を独自の方法で証明しました。
1895年、スイスのチューリッヒにあるポリテヒニクム(Eidgenössische Polytechnische Schule、スイス連邦高等工業学校)に特別に規定より2年早く受験を認められたが、生物と国語が不合格でした。
しかし、1896年、晴れてポリテヒニクムに入学しました。なお、ポリテヒニクムは、当時は大学より格下と見られていましたが、その後、大学に格上げされてスイス連邦工科大学チューリッヒ校(Eidgenössische Technische Hochschule Zürich)となり、ノーベル賞受賞者を21人輩出し、ヨーロッパの最高の理系大学の一つとされています。
ポリテヒニクム在学中は、自分の関心のある実験等は非常に熱心でしたが、教師との折り合いは十分ではなく教師の評価は高くなかったようです。
1900年7月、ポリテヒニクムを卒業しましたが、当初、就職先が見つかりませんでした。しかし、1902年、ポリテヒニクムの旧友の父親の紹介でスイス特許局に審査官としてて就職できました(なお、1901年、スイス国籍取得)。
結果的には、アインシュタインにとって審査官としての就職は非常に幸運でした。審査官は余暇に研究のための時間が確保でき、研究仲間を募り議論をしつつ物理学の研究等の没頭できました。
その成果として、ポリテヒニクム卒業約5年後の1905年に、重要な3本の論文を執筆・発表しています。
第1論文は気体と液体中で不規則に動く微粒子のブラウン運動(分子の実在説)についての論文、第2論文は光電効果(光が粒子であるとする光量子説)に関する論文です。
そして第3論文が光速不変を基本原則とする「特殊相対性理論」(論文名「運動物体の電気力学」投稿受付6月30日)です。
なお、アインシュタインは今(2023年)から102年前の1921年にノーベル物理学賞を受賞していますが、受賞対象は(特殊)相対性理論(1905年第3論文)ではなく、同年第2論文の「光電効果」でした。
これは相対性理論が従来の物理学を根本的に変革するものであり、その内容を理解できる研究者が少なかったためと言われています。